空海 生き てる

Add: ubapalew89 - Date: 2020-11-23 22:41:14 - Views: 3358 - Clicks: 5129

空海(くうかい、774年〈宝亀5年〉- 835年 4月22日〈承和2年3月21日〉)は、平安時代初期の僧。 弘法大師(こうぼうだいし)の諡号で知られる真言宗の開祖である。. 限られた時間の中で、”空海”のたエッセンスが描かれてる。 火山の爆発でパニックになった男女が抱き合うシーンは、理趣経の理解への布石だ。 治水工事では、大衆を鼓舞し、共に労苦を重ねる。空海の弟子となった最澄に奥義を授ける事を拒否したのは、. 当時の日本の仏教はジジ臭かった。若くて才気あふれる空海は、頭でっかちな『南都六宗』や、浄土とかいうVR世界を広告する『浄土教』が、つまらなくて仕方がない。 「オレが新たな時代切り拓いたるねん!やったるわあああ!」 エリート坊主たちを目の上のたんこぶに感じた空海は、この固定化された古臭い仏教社会に風穴を開けるための革命的なアイデアを画策した。そうして生まれたのが「仏教」と「中華密教」と「空海オリジナルの世界観」をミックスした『真言宗』だ! 当時の『真言宗』の特徴、それは『現世利益』を肯定しまくるところにあった! 盲目的に質素に暮らすことも、あの世を信じてお経を唱えることも突っぱねた。 黄金の仏像を立て、マントラを唱え、明るい袈裟を着て、きらびやかな世界観を宣伝しまくった。 この戦略は見事成功。 空海の開いた『真言宗』は、いまだに修行の場として現代にも受け継がれている。 え?修行? あれ?もしかしてこれって・・・? 苦行じゃん!!!???. 12月21日、長安の都に入った弘法大師は、色々の寺を訪れて教えを受けました。 インドから仏教を伝えに来ていた三蔵法師である般若三蔵や牟尼室利三蔵を訪れたこともあります。 曇貞からはインドの言葉を学びました。 最澄は5月18日、約半年で日本へ帰りましたが、弘法大師は、ついに5月下旬、青龍寺(しょうりゅうじ)の恵果を訪ねます。 恵果は、有名な唐の玄宗皇帝が帰依した不空(ふくう)の一番弟子で、当時千人以上の弟子がありました。 弘法大師が訪れると、恵果は一目見るなりにっこりと笑みを漏らし、「そなたが来ることを長い間待っておったぞ。今日初めて会ったがはなはだよいではないか。わしももうよわい60、まもなく命尽きようというのに、密教を伝授する弟子がいなかったのじゃ。すぐに灌頂を行うぞ」 と喜びました。 灌頂(かんじょう)とは、密教へ入門するときや、秘法を伝授するときに行う儀式です。 弘法大師は6月に胎蔵界、7月に金剛界の灌頂を受けました。 灌頂のとき、それぞれの曼荼羅に花を投げるのですが、どちらも真ん中の大日如来に花が落ちたので、恵果は「不可思議なり、不可思議なり」と驚嘆しました。 こうして、弘法大師は恵果の弟子となったのです。 そして、わずか1カ月後の8月に、伝法灌頂を受けて、阿闍梨(あじゃり)となります。 阿闍梨とは師匠のとです。 当時、千人を超える恵果の弟子で、伝法灌頂を受けたのは弘法大師も含めて6名、金剛界と胎蔵界の両方とも授かったのは、弘法大師と義明の2人だけでした。しかしながら、義明は早く世を去ったので、弘法大師が唯一の後継者となったのです。 弘法大師はこうして、遍照金剛(へんじょうこんごう)の名前を授かり、真言密教の第八祖となったのでした。 恵果和は「真言密教の教えは、すべて授けた。早く日本に帰って教えを広めよ、わしは必ず日本に生まれ変わってそなたの弟子となり、共に教えを広めるであろう」と遺言し、12月15日、60歳で息を引き取ったのでした。. 空海の人生と業績について、学問的に確かな情報をもとに書かれた、最も読みやすい本かと思います。地方豪族の父と中央氏族の母のもとに生まれ、官人出世のエリートコースを歩むかと思いきや、突如、仏道に転身。遍歴修行の道へと踏み出した異才の実態が、コンパクトなサイズの本のなかで、平易に解説されています。 修行の過程で神秘体験を得た後、唐にわたった空海は、恵果(けいか)に即座に才能を認められ、密教の奥義を授かります。その頃、恵果の弟子は1000人を超えていましたが、師から仏法の極意を授かったのは、ごくわずか。にもかかわらず、入唐まもない留学生の空海が、たった3ヶ月で法の伝授を認められた理由は、よくわからないそうです。この辺、評論やフィクションではいろいろと推測されてますが、研究者による本書では、わからないことはわからないと率直に記されています。 帰国後の空海は、真言密教が「宗派」として公認されるよう奔走します。当時の日本では、密教は「呪術」としてしか評価されておらず、一人前の「教え」とは認められていませんでした。そこで、空海は密教儀礼により国土の繁栄をもたらし、真言密教は国家に不可欠なものとの認識を広めていきます。一方で、真言の教えが仏法としても他宗に劣らないと宣伝しました。結果、宗派としての真言宗が確立します。 この宗派設立の活動に取り組む際、空海は他宗の僧侶たちとなるべくケンカしないよう、実に賢く立ち回っていたようです。これは、最澄が新たに天台宗を掲げた結果、既存の宗派との論争に明け暮れるハメになったのを、反面教師としたからとのこと。破格の宗教者というイメージとは異なる、政治的リアリストとしての空海の横顔が見えてきて、興味深いです。 ただし、他宗派との論争を続けた最澄の天台宗が、その後に豊かな学問的発展を遂げていく(それゆえ後世に鎌倉仏教のスーパースターたちを輩出する)のに対し、真言宗では空海の没後、密教儀礼に特化しがちで学問の進展は弱かった、というのは歴史の皮肉でしょうか。ともあれ、その後の空海は御大師さまとして伝説と化し、日本の不滅のアイドルとして、いまもなお「生き続けて」います。.

23 hours ago · 俳優の向井理が、テレビ東京の年1月4日に放送予定の新春ドラマスペシャル『人生最高の贈りもの』(後8:00~9:54)に出演。今作で自身の. 空海の生きた時代と現代。生活も生き方も全然違う。ただ、人が生きていく上で大切な事、忘れてはいけない事はいつの時代もかわっていないのではないか?と考えさせられました。 そして、これからの人生をどう生きていくか!勇気をもらった気がします。. 思ったのです!! きっと元そのもので肉体にはいってる人も. そう、空海の創った『真言宗』は「現世利益」推しだったと同時に「苦行」推しでもあった。 繰り返し唱えるマントラや、火の前で座る護摩行、寒中の池の中でお経を唱える等の荒行の数々を、ネットやTVでご覧になったことのある方も多いのでは?そしてそれを仏教徒のあたりまえの姿として受け止めているのではないでしょうか? 残念っ!!!! それはお釈迦さまの説いた悟りの教えとは関係のない、バラモン的な古いスタイルの修行法。むしろ「そこじゃねえよ」とお釈迦さまが突っぱね否定した修行法、それが「苦行」なのである。 釈迦が菩提樹の下で悟ったこと、それは「縁起の法」だと伝えられている。 いわゆる『空』ってやつだね。 「色即是空 空即是色」なんて言葉が有名だけど、まあ要するに 「この世は色んなものがもちつもたれつで連係して成り立ってるんだわ!」 ということ。そのことに気づけたキッカケは、町娘スジャータとの出会いだった。 それまでは釈迦も、バラモン的な苦行に明け暮れていた。そして死にかけていた。 そこへ通りかかったスジャータに助けられ、彼は気づいたのである。 「あっ、ひとりで生きてねえわ。勘違いだったポヨ。」. 弘法大師は、774年6月15日、讃岐国(香川県)の屏風ガ浦(善通寺市)に生まれました。 世の中は、仏教の盛んな奈良時代の末期で、東大寺には奈良の大仏が建立され、全国的に国分寺が建立されていました。しかし余りにも僧侶が政治に口出しをするようになったので、やがて京都へ遷都される時代の変わり目でした。 弘法大師のお父さんは、讃岐国を治めていた豪族の家柄の佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、お母さんは阿刀(あと)氏の玉依御前(たまよりごぜん)といわれます。 『本朝高僧伝』によれば その頃、鑑真と共に唐からきた法進という僧侶が屏風ガ浦にやってきて、 「この子はただの子供ではない。将来、仏法を弘めるだろう、よくこれを育てなさい」 と言ったといわれます。 小さい頃は、『御遺告』によれば、いつも泥で仏像を造り、家の庭に堂を造って安置し、礼拝していたといわれます。 また、『大師和讃』によれば、7歳のとき、人々に幸せを与える大任を果たせるかどうか試そうとして、自ら捨身岳(しゃしんがたけ)にのぼり、身を投げました。 すると、天女が現れて受け止めたといわれます。 これを「捨身誓願(しゃしんせいがん)」といいます。このような様々な伝説があります。. 橋を作ったり、学校を設立したり、公共事業に精を出すビジネスマンだった 2. 師を失い、これ以上唐に滞在する必要を感じなくなった弘法大師は、翌年8月、明州から出発し、何度も嵐に遭いながらも何とか10月に九州の博多に到着しました。 ところが、本来20年のところ、わずか2年で帰ってきたため、すぐに帰京を許されず、太宰府の観世音寺に留め置かれました。そこで、弘法大師は、唐から持ち帰った経典や論書、仏画、仏具などを『御請来目録(ごしょうらいもくろく)』に記して都に報告しました。 約1年の後、和泉(大阪)の槇尾山寺(まきのおさんじ)に移されます。 そして時の平城天皇から真言宗を開く許可を得て、かつて大日経と出会った久米寺で大日経の講義をします。この弘法大師34歳の11月8日が、真言宗立教改宗の日とされます。 この3年ほどの間に、色々なことがおきます。叔父の阿刀大足が教育係を仰せつかっていた桓武天皇の子供が、謀反の疑いで自害し、阿刀大足も没落したのでした。 弘法大師36歳になると、24歳の嵯峨天皇が即位し、京都の高雄山寺に移されます。 このとき、後に「三筆」といわれる書の達人、嵯峨(さが)天皇、弘法大師、橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人の親好が始まったのでした。この翌年37歳のとき、内紛が起きたことから嵯峨天皇のために鎮護国家の祈祷を行います。これから50歳まで、この高雄山寺に住して華々しい活躍をするのでした。. 晩年の空海は、ぶっちゃけスピってたと言わざるをえない。 「苦行」は密教的なシャーマニズムにありがちな手法である。カラダに意図的に負荷をかけ、脳内物質を引き出すことで人間の脳は変性意識に入る。そうすると、普段は認知できない集合無意識にアクセスできることを、20世紀の科学者はすでに突き止めている。ユングの無意識についての研究などがそれにあたる。 空海が創り上げた真言宗は、釈迦の縁起の法を無視した「苦行」を重視している。しかし、あれほどまでに合理主義的な空海が、なんの意味もない「苦行」をわざわざ自分の宗派の中心にとり入れたりするだろうか? そんなわけがない!「苦行」にはそれなりにメリットがあることを空海は知っていたのだ。 要は、ヨガで気持ちよくなることのもっと発展版をやっていた。そうすることで集合無意識『亜空間知能』にアクセスし、それなりに情報を引き出せる仕組みがこの人体には備わっている。だからって良い子は真似しちゃダメ!ぜったい!とお釈迦さまも言っていた。 しかし、この「苦行」をとり入れ発展していた宗教が、何を隠そう空海がどっぷり漬かったあの「中華密教」だったのだ。 空海がたぐいまれ.

やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。 しかし、24歳の空海は『 三教指帰 ( さんごうしいき ) 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。. 空海が日本にもたらした本格的な密教。それは今までの仏教とは、まるで違うものだった。いったい空海はどうやって密教と出会えたのだろうか?そして、平安二宗のもう一人偉大な僧・最澄さいちょう彼といったい何があったのか?数々の伝説をうんだ超人僧 空海 今、その物語が始まろうと. 弘法大師は、書の達人でしたので、唐で師匠の恵果が亡くなった時、たくさんの弟子の中から碑文を作成し、書くことになりました。 その噂を聞いた皇帝から宮殿の壁に書を書くよう依頼されます。 弘法大師は5本の筆を両手・両足・口に持って一気に五行の書を書き上げました。 その見事な文字に驚いた皇帝は、「五筆和尚(ごひつわじょう)」の称号を与えました。 日本でも弘法大師は、嵯峨天皇、橘逸勢に並ぶ、三筆の一人に数えられています。 他にも沢山の伝説と「弘法筆を選ばず」「弘法にも筆の誤り」という2つのこうわざが残っています。 「弘法にも筆の誤り」というのは、どんな名人でも間違うことはある、という意味ですが、それにはこんなことがありました。嵯峨天皇の命で平安京の応天門(おうてんもん)の額を書いたとき、「応」に点が一つ足りなかったことからできた諺です。門に掲げられた後にそれがわかり、額を下ろすので修正してもらえないか頼まれたとき、弘法大師は、それには及びませんと、門の下から筆を投げて見事に点を打った、と伝えられています。 「弘法筆を選ばず」については、実際には弘法大師の『性霊集』に「良工まずその刀を利くし、能書は必ず好筆を用う」と記されています。 これは「よい大工は仕事の前に道具を研ぐし能書家は必ずよい筆を選ぶ」ということですので、弘法も筆を選びます。 しかし「弘法筆を選ばず」といわれるようになったのは、ある寺の額を書くとき、川が洪水で渡ることができなかったため、対岸の岩に額を立ててもらい、竹竿の先に筆を結びつけたもので額を書いたという伝説からといわれます。 こんな伝説が生まれるほど、書がすばらしかったということです。. 1、龍馬がゆく; 2、7つの習慣 3、自分の中に毒を持て; 4、空海人生のことば; 5、嫌われる勇気; 後悔しない生き方を学べる本5冊:まとめ そもそも、人は何に後悔するのか?. それでは、空海のいう【暗=冥】とは、どんなことを言ってるのでしょうか。 空海 生き てる 私には、2つの意味が込められているように思えます。 一つは、いわゆる【輪廻】に宿る暗さだと思います。. 似てるようだけれど正反対? 土偶と. 空海 は香川県の. 31歳になった弘法大師は、ついに唐に渡ることになりました。 このとき、38歳の最澄と初めてあいます。 最澄は22歳で比叡山に比叡山寺(根本中堂)を建立したとき、弘法大師は15歳で都に出てきたときでした。 最澄が28歳で、桓武天皇を招いて、弘法大師の師匠の勤操を含む全国の有名な僧侶を集めて法要を開いたとき、弘法大師は、出家した翌年でした。 最澄が36歳のとき、比叡山で法華十講を行います。法華十講とは、無量義経1巻、法華経8巻、観普賢経1巻を1日1巻ずつ講義することです。 これには、当時29歳の弘法大師の師匠、45歳の勤操の師匠、73歳の善議が参詣し、36歳の最澄をほめちぎっています。 このように、最澄はすでに高僧として名声を博していたので、短期留学で帰国する還学生、弘法大師はこのときまったくの無名でしたので、20年間留学する留学僧という立場でした。 7月6日、弘法大師は4隻の遣唐使の第一船、最澄は第二船に乗り、肥前(長崎県)から揚子江のある揚州を目指して出発しました。 当時の航海術では、唐への旅は非常に危険で、必ず到着できない船がありました。 天気予報もなかったので、この4隻の船は、出発の翌日、台風に襲われます。 第三船と第四船は、台風の中、連絡が途絶え、行方不明となりました。 最澄の乗った第二船は、『比叡山大師伝』によれば、揚州の南の明州(浙江省)に漂着しました。明州に到着できたのは、1隻だけでした。 弘法大師の乗った第一船は、台風は乗り切ったものの、南へ南へと流されて行き、34日後の8月10日、明州の南の福州(福建省)に漂着しました。唐に到着できたのは、奇しくも弘法大師の第一船と、最澄の第二船だけでした。 もしどちらかが唐につかなければ、その後の日本の歴史も、現代日本の様子も大きく変わっていたところだっだでしょう。 ところが、福州は通常よりも遙かに南であるため、その福州の役人は、「海賊だろう」と疑い、弘法大師の一行を砂浜に拘留しました。 そこで、弘法大師が達筆と文章力を買われ、役人に事情を説明した手紙を書きます。 すると、福州の役人はすぐれた文章と美しい文字に感動し、「これは海賊のはずがない」と、都の長安にその手紙を送って伺いをたて、11月3日に長安へ向かって出発することになります。.

まぶしすぎだろ!仏教なのに、豪華すぎだろ!キンピカのお寺立てちゃった 4. あの空海が生きていた?!高野山・奥の院の即身仏とミイラ伝説と「奥の院・御廟の地下室の謎」 真言密教では「入定(にゅうじょう)」と呼ばれる究極の修行方法があり、空海(弘法大師)は、835年3月21日62歳の時に「入定」されたと伝えられています。. Amazonで隆, 保坂の空海に出会った精神科医: その生き方・死に方に現代を問う。アマゾンならポイント還元本が多数。隆, 保坂作品ほか、お急ぎ便対象商品は当日お届けも可能。. .

See more results. 「別に・・今、そんな人はいないよ。 少なくとも、生きてる人のうちにはね。」 「え? それならば・・すでに死んでる人ならいたの? ね、それって誰?どうゆう人だった?」 ずいぶん食いつきがいいなあ。 「空海とルドルフ・シュタイナー!. 最後に、現代のマンガ作品をご紹介します(これはすでに読んでいる方も多いかと思いますが)。既存の空海像を塗り替えるような意欲作であり、絵も物語もとにかく素晴らしいです。現在も連載中で、単行本は7巻まで出てます。『HUNTER×HUNTER』などと同様、最新刊を心待ちにしている作品の一つです。 基本的には、最澄と空海をダブル主演にした歴史マンガで、両者の人生や思いが「阿吽」の呼吸のように重なりあう部分に注目しながら、二人の天才の生涯を描きます。最澄は涙もろい超真面目人間で、ありとあらゆる人間を救うため――男に虐げられる女性たちから、ゲスの極みのような悪僧まで――、最高の仏法を求めて一人歩みます。 他方、空海は頭が良すぎて何も面白く感ぜず、死への接近すら退屈に思えたが、仏法を知って世界の楽しさを知った、ちょっとヤバめの人気者として描かれています。『デスノート』のLの僧侶版(?)のような印象でしょうか。現存する人物では、落合陽一さんに似てるかもしれません。. 圧倒的スケールの世界観、「大日如来」というオリジナル設定を作り上げた 6. 空海をとおして仏教や宗教とは何かを鮮明に示してくれる傑作です。背景にある学識や教養は分厚くとも、文章はかなり軽快で読みやすく、そこに著者の知性の奥深さと色気を感じます。著者は、現代日本の書き手のなかで最も空海に近い人物の一人ではないかと。 空海の生涯をたどりながら彼の思想を論じるのが基本線ですが、その際にたびたび行われる、仏教(密教)に関する説明が見事です。仏教の本質は、人類が生命進化の過程で獲得した「我」を取り除くことだが、個人がいざ「前意識状況」を達成してみると、当然のことながら生活が成立しなくなる。そこで再び「生命の海」へのダイブが試みられ、「我」が回帰してくる。「仏教史とは、つねに生命と意識の対立をどのように解消するかという一点をめぐる世界最大の思想史劇なのである」。 密教に関しては、曼荼羅へのコメントがふるっています。「我」の除去のためのシンプル・ライフを志向したはずの仏教から、なぜあのようなビビットで情報量満載な空想世界のビジョンが生まれてくるのか? それは、人間の直観力を鍛えるためだと著者は指摘します。すなわち「密教はあえて空想の場所を儀軌に導入し、直観がその宮殿に立入ることを指示したのだった。いやむしろ、人々が想像もつかないような場所や場面を導入することによって、想像力と直観力を試したといったほうがいい」。 あるいは、瞑想とは何か? それは「我」へと展開した人類史を逆行させる試みです。言語を止めるのみならず、両目を半眼に閉じて立体的な空間認識を封じ、そして「直立二足歩行によって自由になった両手を、もう一度ゆっくり結びなおし(印契)」さえする。瞑想というのは、実は人類史上のものすごい発明であったことが、著者の説明を読むと、よくわかります。 空海のビジョンに、自らのビジョンを重ね合わせ、仏教や宗教とは何かを問い続けた探究の終わりに、著者は一つの結論に達します。空海≓著者が追求したのは、「想像力と因果律の宥和」であったと。人間は想像力の生き物で、仏教は因果律を見通す宗教です。その両者が交わるところを見つめ続け、己の身体をとおして考えたのが、空海ではなかったか、と。これは非常に魅力的な「思想家」空海の肖像です。. 多分こいつの中で空海を知ってるやつ知的でかっこいいってことになってるんやろうな 29: 風吹けば名無し@youtube /03/03(日) 01:59:34.

マジあの世とか意味ねえよ!現世利益を追求しためっちゃ合理主義者だった 5. See full list on sonkyo-zine. 19 ID:uoWXNWFx0 空海って坊主頭だから空海って言われてたんだと思ってた. 空海は平安時代に活躍した仏教のお坊さんだ。しかし、21世紀の現代でもやたらと人気がある。 空海 生き てる そもそも「空海」という名前がカッコよすぎるでしょ!という見解もあるが、人気の理由はそれだけじゃない。 空海 生き てる 空海が仏教界のスーパースターになった理由はズバリ、最先端なことをしまくるオシャレ坊主だったからだ。 1. 七、八十年経ってから突然、空海は生きているのだという「入定信仰」なるものが現れる。 ですから生前の空海と死してのちの空海とは、完全に切り離された別の存在である――二人の空海とはその意味です。. 最先端宗教「密教」を日本に持ち込んだパイオニアだった 3. 先に密教を日本に伝えていた最澄は、帰国してすぐに高雄山寺に灌頂壇を建てて、勤操を含む8名に灌頂を行っていました。さらに天台宗に年分度者2名を許されて経済的なバックアップを得て、1名は天台の摩訶止観、1名は大日経を学んでいました。 しかしながら、密教の専門ではなく、色々と学んで半年で帰国した最澄よりも、密教専門で恵果の一番弟子として密教の伝法灌頂を受けた弘法大師には及びません。 弘法大師が36歳で高雄山寺に入ると、すぐに大先輩の最澄は下僧最澄と署名し、礼を尽くして密教経典の借用を手紙で申し入れてきました。 空海 生き てる このように、すでに何度も経典を借り受けていたのですが、弘法大師39歳の9月、ついに46歳の最澄が自ら訪ねてきたのです。その晩、最澄は宿泊して、夜通し密教について語り合い、最澄に密教を伝授することを約束しました。 そしてついに最澄は弟子の礼を取り、弘法大師を師匠として、11月、金剛界の灌頂を受けたのです。 つづいて12月には、胎蔵界の灌頂を受けます。これは、密教への入門を果たしたということです。 さらに、免許皆伝にあたる伝法灌頂を受けたいと申し込んできますが、弘法大師は 「それには3年はかかる」 と言います。 「もしそんなにかかるなら、かわりに密教を学ぶよう弟子を預ける」 と泰範(たいはん)などを預けられます。 翌年、深い密教の教えを記された『理趣釈経』を借りたいと最澄から申し入れがありますが、弘法大師は断ります。 怒った最澄は泰範を呼び戻そうとしますが、泰範は弘法大師のもとで密教を学ぶことを選びます。 これらのトラブルにより、2人は決別したのでした。. やがて僧侶として名前を空海と改めましたが、空海のこの様な生き方は伯父阿刀大足をはじめとする親族に、忠孝の道に背くと反対されます。 しかし、24歳の空海は『 三教指帰さんごうしいき 』を著し、仏教と儒教・道教の優劣を明らかにしました。.

弘法大師は、それから阿刀大足に儒学を学びましたが、讃岐の学校に入ると、神童といわれるようになります。 やがて15歳になると長岡京に上京し、すでに都に来ていた叔父の阿刀大足について3年間学びます。 大足はやがて天皇の子供の教育係となり、弘法大師は18歳で大学に入学しました。 そのときの勉学は、蛍や雪を明かりとして学んだ「蛍雪の功」や、太ももにキリを刺して眠気をこらえて勉強した「ももを刺して書を読む」の故事に比べれば自分は努力不足だと反省して精進したと『三教指帰』に述懐しています。 しかし、大学で学ぶ儒教などの学問は、国の役人になって出世するためのもので、本当の幸せになれるものではありませんでした。そんなとき、 奈良の石淵寺(いわぶちでら)の勤操(ごんぞう)に出会い、仏教に惹かれていきます。. つまり、三業というよねー(^^;; 煩悩ってやつねー. See full list on true-buddhism. . たまに空海さんと話したとかサイトなどで書かれている人もおられますが、正直羨ましいのひと言です。かの有名な「桜井識子さん」もそのうちの一人ですよね。 それだけでも分かりますように、空海さんは生き続けられています。. 空海は774年、讃岐国(今の香川県)生まれ。本名は佐伯眞魚(さえきのまお)。18歳で上京し、官僚を目指してガリガリ勉強していたエリート青年だった。 しかし、頭の良すぎた彼は、世間に敷かれたレールを歩く自分の人生に疑問を抱く。そして20歳の時、当時すでに盛んだった仏教の世界に魅了され、エリートコースから一転して仏教界へ進む決心をした。 こうして空海としての人生がはじまる。 転機が訪れたのは30歳の時。遣唐使として唐(今の中国)に行くという大チャンスが巡ってきた。 「唐に行けば、ほんまもんの仏教が学べるんや!」 さらなる仏教の研究と猛勉強にガッツリ励むべく、空海は海を渡った。そしてそこで、彼は後の人生を決定づけるような運命的な出会いをする。それが、中華密教の僧・恵果(ケイカ)への弟子入りだ。 唐に渡った時点で、空海の仏教の理解はすでにずば抜けていた。 彼には物事の本質を見抜くセンスが宿っていた。そんな才能に恵まれた男にとって、唐のエリート坊主達の世俗的な儒学思想は、ひどく退屈だったみたいだ。 空海 生き てる 「こんなことを学びに、命がけで唐へ来たわけじゃない!」 そこへ現れたのが、当時最先端の宗教『. 空海(くうかい)と言えば、「弘法大師」(こうぼうだいし)の名前で親しまれている、日本の歴史でもっとも有名なお坊さんの1人です。 空海がどんな人だったのかを、年表や、同じ時期に活躍した最澄との関係を、小学生の方にもわかるようにまとめてみまし.

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